壁に手をついて、板張りの廊下を歩く。
右に曲がって、左に折れて。
あっちでもない。こっちでもない。
そんなことを繰り返していたら、いつの間にか同じ場所をぐるぐるぐるぐる。
ふと気がつけば、自分が今どこにいるのかも、どこから来たのかも、さっぱりわからなくなっていて。
これは、ひょっとしなくとも……。
「…………迷った?」
Chapter 08
さて、どうしたものか。
学園内で小さな騒動が起こっている頃、渦中の人であるは、傍の壁に寄りかかってう〜んと腕組をしていた。
目の前に広がるのは長い長い廊下。
ふと視界の端に映った掲示板の張り紙に、ここ、さっきも通ったよなぁと、ぐるり辺りを見渡した。
「多分、これまっすぐ行くと学園長室なんだよね……じゃぁ、これを右に曲がって…………あれ?」
指さし確認しながら進んだ先には上り階段。
初めて見るそれに、『あぁ…』と思わず落胆のため息が零れた。
「忍者屋敷って、複雑すぎる……」
誰かに連れられている時は少しも難しいと感じなかったし、記憶力と方向感覚には自信があるから一人でも平気だと思ったのに。
実際は目的地に辿り着けず、同じところばかり回り続けてしまっている。
「こうなるんだったら、やっぱり山本先生のご厚意に甘えるべきだったかな……」
溜息を吐いて、今更ながら後悔する。
しかしそんなことを言ってもしょうがないと、弱気になってる自分に活を入れ、再び歩を進めた。
必死に記憶を手繰り寄せながら、とりあえずすぐ傍の角を左に折れる。
と、その時。
「うわっ!」
「キャッ!」
丁度角の反対側から来た相手と、真正面から体がぶつかった。
それほど衝撃は強くなかったが、反動でバランスを崩したはそのまま後ろに尻もちをついた。
瞬間足首にも痛みが走り、堪らず顔を顰める。
足首を摩りながら何とか顔をあげたの視界に映ったのは、金髪頭の少年だった。
「わぁ!!すっすいませんっ!」
「い、いえ。こちらこそごめんなさい」
打ち所が悪かったと思ったのか、少年が酷く慌てた声を出す。
紫の忍装束を着ているのを見る限り、多分彼もここの生徒なのだろう。
しかしそれにしては、妙に派手な身形だ。
(忍者って普通、地味な格好で極力目立たないようにするもの、だよね?でもこの子の髪型、なんか凄いんですけど……)
自分の居た世界でも、ここまで明るい髪色をした人間はなかなか居ない。
物珍しさに少し緊張しながら、ついまじまじと見つめてしまう。
彼はというと、そんなの無遠慮な視線に気付いていないようで『どうしようどうしよう』と辺りをキョロキョロしていた。
どうやら相当焦っているらしい。
「あ、本当大丈夫です。ただ怪我に響いて辛かっただけだから」
「え?怪我してるんですか?」
「足首をね、ちょっとだけ」
「うわぁ、痛そう……」
視線を足首の包帯に落とて顔を顰める少年に、は苦笑いを返す。
一先ず立ち上がろうと壁に手をつくと、彼は慌てて手を貸してくれた。
礼を言うと、『えへへっ』と少し照れくさそうな笑顔を見せる。
裏のないその態度に、とりあえず悪い子ではなさそうだと感じたは、無意識のうちに張っていた警戒の糸を解いた。
「あ、それでね?私、医務室へ行きたいんだけど、ここからどう行ったらいいのかな?」
「医務室?だったらこことは反対方向ですよ?」
「えっ!?そ、そうなの?」
「はい。この先はもう校庭に出ちゃいますから」
「あー……そう、なんだ……」
ぐるぐると徘徊しすぎた所為で、いつの間にか見当違いの場所へと来てしまったらしい。
そりゃぁいつまでも着かないわけだと自嘲的な薄笑いを浮かべたは、思わず首を小さく垂れた。
そんな彼女を少年は暫しきょとんとした表情で見つめていたが、ややして笑顔を浮かべると、俯いた彼女の顔を覗き込んだ。
「良かったら、僕が案内しましょうか?」
「え?いいの?」
「はい!」
「で、でも君……えぇっと……」
「斉藤 タカ丸です。タカ丸でいいですよ〜」
「タカ丸、君?もこれから用事があるんじゃぁ……」
「大丈夫です!兵助君は優しいから、ちょっとくらい遅くなっても許してくれます!」
邪気のない笑顔を浮かべてそう言うタカ丸に、は少々戸惑った。
本心は二つ返事でお願いしたいところだが、どうやら彼には今現在どこかで待たせている相手がいるようだ。
自分の失態でタカ丸と相手の予定を邪魔するのは、何だか申し訳ない気がする。
しかしこの申し出を断れば、自分はまた同じ道を行ったり来たりすることになるだろう。
それもかなり嫌だ。
どうしようと悩んで、視線をあげた。
目の前の相手は、先程と変わらずニコニコしている。
(……やっぱり、ここはご厚意に甘えよう)
「…………それじゃぁ、お願いしてもいいですか?」
「はい、勿論!」
「(『兵助君』ごめんなさい!少しだけ、タカ丸君のことお借りします!)」
まだ見ぬ相手に心の中で謝罪しながら、笑顔で頷いたタカ丸に感謝する。
改めてよろしくとタカ丸に頭を下げようとしただったが、次の瞬間。
「きゃっ!?」
急に高くなった視線と、宙に浮いた体。
何事かと慌ててタカ丸の方を見ると、必要以上に近い互いの距離に大いに驚いた。
「じゃぁ、行きましょうか」
「たったたっタカ丸君!?」
「はい?何ですか?」
「な、何ですかじゃなくて、これは一体……っ」
の背中と膝裏に回されたのは、まぎれもなくタカ丸の腕。
あまりにも自然な動作だったから気付くまで時間がかかったが、この体勢はいわゆる、お姫様だっこというやつだ。
まさか自分が抱きあげられるなど考えてもいなかったは、思わぬ不意内にかぁっと顔が熱くなる。
「だって……えぇっと、名前なんでしたっけ?」
「…… 、です……」
「へぇ〜さんって言うんですか。可愛い名前ですね〜」
「あ、ありがとうございます……じゃなくてね」
「だってさん、足怪我してるんでしょ?だから負担かけないように、僕が医務室まで運ぼうと思って……」
『何か変ですか?』と心底不思議そうなその表情からして、この行為は完全に好意なのだと確信する。
タカ丸の心遣いは、正直ありがたいと思う。
きっと彼は本当に優しい人なのだ。
だがしかし、何もそこまで気を使ってもらう程の怪我ではないし、何よりこの体勢が恥ずかしすぎる。
「た、たしかに怪我してるけど、そんな酷いわけじゃないし!一人で歩けるから!」
「えーでも、さっき痛がってたし……悪化しちゃったら大変だし……」
「だ、大丈夫!本当にっ全然っ大丈夫だから!(だからお願い降ろしてぇぇ!!)」
この時代の若者は、簡単にこういうことが出来るのか。それともタカ丸が稀なのか。
とにもかくにも、一刻も早くこの状態から解放してほしいは、顔を真っ赤にして抵抗した。
そんなにタカ丸はわけがわからないと言った様子だったが、必死なその姿に圧倒されたのか、ややして『わかりました』とゆっくりと彼女の体を降ろした。
無事廊下の上へと足を降ろしたは、はぁっと大きな息を吐いて、傍の壁に凭れかかる。
無駄に声を張り上げた所為で、何だかどっと疲れてしまった。
「?大丈夫ですか?」
「へ、へいきです……案内、よろしくお願いします……」
「は、はい」
胸の辺りを抑えて不自然な笑顔を見せるに、タカ丸は一瞬戸惑いつつも『こっちですよ』と指をさす。
一歩踏み出そうとした時『あ』と短く声をあげて、クルリとを振り返った。
「じゃぁ、これだったらいいですか?」
言葉と同時にぎゅっと手を握り締められ、は目を丸くしながらタカ丸を見た。
彼は人の良い笑顔を浮かべて、のほほんと微笑んでいる。
「あ……えぇっと、はい……」
「良かった。じゃぁ行きましょー」
にこりと笑って歩を進めるタカ丸に手を引かれながら、はなんとも複雑な気分になった。
やはり、彼にとって先程の行為は、何ら特別なものではないらしい。
そう思うと、あんなに取り乱した自分が少々情けなく思えてくる。
「……あのータカ丸君?」
「はい?」
「変なこと聞くかもだけど……タカ丸君て、歳いくつ?」
「歳ですか?十五です」
「十五才……」
「何か?」
「い、いえ、何でもないです……(うぅぅ……十五才の子に抱き上げられて、こんなに動揺するなんて……私はいったいどこの生娘……)」
子供という認識である年下の行動に、まるで少女のように胸を高鳴らせてしまった自分。
今度は違う理由で顔が赤くなりそうだと、は小さく項垂れた。
***
見覚えのある『医務室』の表札が視界に飛び込んでくるまで、時間は五分もかからなかった。
タカ丸が足を庇うの速度に合わせて歩いてくれたので、実際はもっと早く着けたのかもしれない。
しかしいずれにしても近いことには変わりなく、やはり最初に考えていた通り、なんてことはない簡単な道のりだった。
(人に連れて来てもらうとすんなり来れるのに……どうして1人だとあんなに迷っちゃったんだろ……)
「私って、実は方向音痴だったのかなぁ……」
「僕も最初はよく迷いましたよ〜」
溜め息交じりに呟いたに、タカ丸が笑顔で返す。
何気ないその言葉に彼の心遣いが感じられて、本当に優しい子なんだなぁとしみじみ思った。
「あれ、タカ丸さん?」
「あ、三郎次君」
不意に後ろからかけられた声に振り返ると、タカ丸よりも随分と幼い顔の少年がこちらを見つめていた。
彼はタカ丸の隣にの存在を確認した瞬間僅かに体を引いたが、それでも傍へと近づいてきた。
「ここで何やってるんですか?委員会に行ったんじゃなかったんですか?」
「彼女を医務室に案内してたんだよ」
「……誰です?この人」
チラリとを見つめる少年、三郎次。
まるで不審者を捉えるようなその目つきに、は僅かに戸惑った。
しかしすぐに当然の反応だと苦笑して、初対面の相手に失礼のないようにペコリと頭を下げて自己紹介をする。
「 です。初めまして」
「?……え、 って……」
の名を聞いた途端、三郎次はその瞳から先程までの疑心を消し、変わりに驚きの色を映しだした。
どこか焦った様子でタカ丸を見るが、その視線の意味に気付かないらしいタカ丸は、頭の上に疑問符を浮かべている。
「どうしたの?三郎次君」
「どうしたのって……タカ丸さん、この人のこと知らないんですか?」
「うん?つい今さっき、会ったばかりだけど?」
『それじゃ駄目なの?』と首を傾げるタカ丸に、三郎次は呆れたような表情を見せる。
それからチラリと、へ目を向けた。
「例の三馬鹿トリオを盗賊から助けた、『さん』、ですよね?」
「さ、さんばか?」
「一年は組の乱太郎、きり丸、しんべヱの三人組のことです」
「(あの子達、そんな風に呼ばれてるんだ……)あ、う、うん。でも、どうしてそれを……?」
「有名ですよ。『あのしんべヱを持ち上げられるくらいの怪力で、大の大人を五人も倒しちゃう凄腕で、新しい剣術の師範になったさん』って」
「えっえぇぇ!?」
「えっ嘘!さんて、そんな凄い人だったの!?」
『全然知らなかったっ!』と隣で驚くタカ丸に『いや、私も全然知らなかったんですけど!』と心の中で返しながら、慌てて三郎次に詳しい説明を求める。
「え、えっと、三郎次君?その話は誰から聞いたの?」
「俺の場合はクラスのやつが話しをしてて……ていうか、学園中の噂ですよ?」
「が、学園中の……?」
「多分、もう生徒のほとんどが知ってるはずです。まぁ、タカ丸さんはあれですけど……」
「いやぁ、あははは〜」
頭に手をやって誤魔化すように照れ笑いをするタカ丸とは対照的に、の顔色はどんどん悪くなっていった。
噂とは、いつの時代も嘘と誠が混じり合う。
人から人へと伝えられていく度に、自然とその話し手の主観や感情が含まれてしまうからだ。
故に根も葉もない付属がついて、最終的に真実とは全く異なる話にされていることも、決して少なくない。
そしてその誤解を解くのも、なかなか厄介なのだ。
(い、いやだな……まだ会ってもいない人達に、変な先入観持たれちゃってたら……)
妙な不安が胸を渦巻き、はついつい黙り込んでしまう。
そんな彼女にタカ丸が口を開きかけるが、それを防ぐように三郎次がぐいっと彼の腕を引いた。
「タカ丸さん。俺達はそろそろ行かないと」
「え、あ、うん……あ、でも……」
心なしか冷めた口調の三郎次に、訳がわからないタカ丸は困惑しながらに視線を送る。
それに気付いたは『あ、』と小さく声を漏らし、すぐに右手を横に振った。
「あっタカ丸君。私のことなら気にしないで行って?兵助君、だっけ?彼も待ってるだろうし」
「う、うん……でも、大丈夫?」
「うん。もうすぐそこだし、ここまで来たら全然大丈夫。本当にありがとうございました」
意識して出来るだけ無理の感じさせない笑顔を作り、タカ丸に向ける。
タカ丸は何か言いたげにを見つめていたが、『タカ丸さん』と再び三郎次に名を呼ばれ、どこか諦めたような様子で頷いた。
「わかった。じゃぁ僕はこれで……あ、足、お大事にね?」
「うん、ありがとう。それじゃぁ」
繋いでいた手を解いたは、タカ丸と三郎次に小さく頭を下げ、医務室へと続く廊下を進んでいった。
その後ろ姿を見つめながら、ふぅ…とどこか名残惜しそうな溜息を吐くタカ丸に、僅かに眉を顰めた三郎次が忠告する。
「タカ丸さん。あの人には気をつけた方がいいですよ」
「えぇ、どうして?」
「あの人が持っていた物も着ていた物も、全部この辺りでは見たことない品らしいです。しんべヱが聞いたという話も、どこか現実離れしていて怪しい、とか」
「へぇ……」
「先輩達の中には、あの人がどこかの間者じゃないかと疑ってる人間もいるって噂ですよ」
「ふぅん……そうなんだ……」
クルリと体を半回転させ焔硝倉に向かおうとする三郎次の後を追いながら、タカ丸は『うーん』と天を仰いだ。
「でも、僕にはさんが悪い人には思えないけどなぁ」
「タカ丸さんはそうやってすぐ相手のこと信用するから駄目なんですよ。忍者はもっと警戒心を持たなきゃ」
「う〜ん。そっかぁ」
「…………まぁ、俺もそんな風には見えなかったけどさ……」
「へ?何か言った?」
「いえ、何も」
***
「失礼します。新野先生……って、あれ?」
てっきり、あの人の良い笑顔が出迎えてくれると思っていたのに。
医務室の中に新野の姿はなく、変わりに居たのは二人の少年だった。
一人は青の、もう一人は乱太郎達と同じ井桁模様の忍装束を着ている。
其々が手に薬草を潰すための擂鉢や洗濯したばかりのような真新しい布などを持っているのを見る限り、どうやらこの子達も保健委員のようだ。
二人は突然現れたに驚いたのか、揃って目を丸くして彼女を凝視している。
「こんにちわ」
初対面なのでとりあえず挨拶をと声をかけたに、青い忍装束を着た少年がはっと我に返ったように勢い良く頭を下げた。
「こっこんにちわ!えっと、 さん、ですよね?」
「え……私のこと、知ってるの?」
「は、はい。新野先生から聞きました。患者用の寝巻を着た女性が来たら足の具合を診るように、と……。
あ、僕は二年の川西 左近です。でこっちが、一年の鶴町 伏木蔵です。よろしくお願いします」
「はじめまして……」
「あ、そ、そうなんだ!それはそれは、ご丁寧にありがとうございます(あー良かったー!この子達も私の噂知ってるのかと思ったー!)」
揃って会釈をする左近と伏木蔵に、はあからさまに安堵の表情を浮かべる。
どうやら三郎次が言う噂の話は、まだ学園全体に広がっているわけではないらしい。
変な誤解が生まれる前に解決したいなぁなんて思いながら視線を戻すと、左近が首を傾げてを見つめている。
何故かほっとしたようなの様子が気になったようだ。
「?どうしましたか?」
「え、ううん別に!」
不思議そうな視線に『何でもない何でもない』と慌てて取り繕い、仕切り直すつもりでゴホンと大きな咳払いをする。
「えぇっと、改めまして、 です。よろしくね」
『左近君と、伏木蔵君』と彼らの名前を復唱したは、彼らに向かって笑顔を見せる。
その笑顔に見惚れた左近は、思わず持っていた擂鉢を落としてしまった。
左近の手から放たれた擂鉢は重力に逆らうことなく、彼の足の上へと着地する。
「いっでぇぇぇ!!」
「きゃぁっ!!だっ大丈夫!?」
「だ、大丈夫です……こんなの、いつものことですから……あは、あははは……」
「い、いつものこと、なんだ……?」
目頭に涙を溜め無理矢理笑顔を作りながらそう言う左近に、どうする事も出来ないはただ引き攣った笑みを返す。
いつものこととは、普段から彼らはそんなに痛い思いをしてるのだろうか。
(そうか……この子達、忍者だもんね。きっと一人前になる為に毎日過酷な修行を受けてるから、こういうの慣れてるんだ……)
自分なりの解釈で、忍者って凄いなぁと感心する。
まさか、ただ単に不運の集まりである保健委員のみが生傷が絶えないだなんて、考えもしないだろう。
と、不意にそれまで黙っていた伏木蔵が、『あの……』と小さく声を発した。
「ん?どうしたの?」
「さん……利吉さんが、さんによろしくって言ってました……」
「えっ利吉さん!?」
伏木蔵の口から飛び出てきた思わぬ人の名前に、は目を見開いた。
『もしかしてここに来たの!?』と言うに伏木蔵がコクリと頷く。
「さっきまでいたんですけど、次の仕事があるからとかで、行っちゃいました……」
「た、大変!」
「えっ!?あのっさん!?」
「ちょ、ちょっと待ってて!また来るから!!」
焦りの表情を見せたは、医務室へ入ろうとしていた体勢をくるりと変えた。
それに驚いた左近がの名を呼ぶが、彼女は再びどこかへと行ってしまう。
バタバタと慌ただしい音を響かせながら去っていくに、呆然とする左近と伏木蔵。
「……な、何なんだ?」
「……足、大丈夫なんでしょうか……」
09...