学園を出る前に、ちゃんと言っておきたい言葉がある。
そう思って訪れた医務室だったが、そこに彼女の姿はなかった。
暫く待ってみたものの、次の仕事へいく時間のことを考えるとそう長居も出来ず。
仕方なく顔馴染みの生徒に簡単な託を頼んで、部屋を出た。
いつも通り事務員の持つ退門票に名前を書いて、若干の名残惜しさも感じつつ、学園を後にする。

またすぐ会えるさ。その時に、ちゃんと言えばいい。

そう自分に言い聞かせ、気持ちを切り替えようと前を向いた、その瞬間。



「――――利吉さん!」



真後ろから一直線に向けられたそれは、間違いなく自分の名を呼んだ。






Chapter 09






突如引き止めるように聞こえた声に、利吉はピタリとその足を止めた。
聞き慣れたと言うにはまだ早く、けれどどこか聞き覚えのあるそれに、まさかと思い内心慌てて振り返る。
軽く目を細めて伺えば、門の先からこちらに向かってくる人の姿。
予想通りと言うべきか、それはつい先程会うことを断念したはずの人、 だった。



、さん?」



ポツリと、覚えたての名を呟く。
怪我している足を庇うようにしながら懸命にこちらへ走ってくるに、驚いた利吉は呆然と立ち尽くしていたが



「あっ!」
「っ!」



道端の小石に足を取られてよろめきそうになるを見た瞬間、反射的に彼の足は駆けだしていた。
すばやく手を伸ばして、その体を支えこむ。



「大丈夫ですか!?」
「は、はい。どうもすいません」



『おかげで転ばずに済みました』と笑うに、利吉も戸惑いながら笑みを作った。
利吉の手を借りて体勢を整えたは、額の汗を拭いながら乱れた息を整えるようにふーっと深く深呼吸をする。
そして再び利吉に視線を戻すと、酷く安心した様子で微笑んだ。



「よかったです。利吉さんがまだ近くにいてくれて」
「え……」
「私、まだちゃんとお礼言えてなかったから」



『礼?』と僅かに眉を寄せる利吉に、頷く



「先程は、危ないところをどうもありがとうございました」



深々と頭を下げるに、利吉は驚き目を見開いた。
呆然と見つめる利吉に向かって、笑顔のは更に言葉を続ける。



「もしあそこに利吉さんが来ていただけなかったら、今頃どうなっていたか……考えただけでもゾッとします」
「……、」
「本当に感謝してもしきれないくらいです。今私がこうしていられるのは、全部利吉さんのおかげ――――」
「っ、やめて下さい」
「え?」



耐えられないと言わんばかりの声音で、利吉がの言葉を遮る。
顔を斜め下へと落とし表情を曇らせる彼の姿に、は意味がわからず戸惑った。



「私は……私は、あなたに責められる理由はあっても、礼を言われる理由はありません」
「そんなこと、」
「いえ、そうなんです。むしろ私は……あなたに謝らなければならない」
「……どうして、ですか?」



僅かに視線を上げた利吉の瞳に映るのは、の左腕。
丁度浴衣に隠れて見えこそしないが、きっとそこには何重にも頑丈に巻かれた包帯があるはずだ。
そしてそれが守っているのは、生々しい傷。
この傷が出来る瞬間、自分はまさにその場にいた。



(この傷は、私が作ったんだ……)



思わず唇を噛み締める。
時間が経てばやがて治りはするだろうが、如何せんあれほどの深さだ。
肌に跡が残ってしまう可能性だって、十分にあり得る。
こんなに若く可愛らしい女性に、自分は一生消えない傷を作ってしまったかもしれない。
そう思うと、申し訳なくていたたまれない気持ちになった。



「何故私が、先生方の前であなたの剣の腕を素晴らしいと言ったかわかりますか?」
「……いえ」
「私は見ていたんですよ。盗賊と戦っているあなたの姿を、すぐ傍でね」
「―――っ」
「あなたが盗賊と戦う姿に見惚れて、動けなかったんです。剣を振るうあなたが、あまりに凛々しく美しかったから」



瞳を大きくさせながら、が息を呑む。
何か言いたいのか唇が小さく動いたが、そこから声が生まれることはなかった。



「私があの時、足を止めたりしなければ……すぐにあなたの元へ向かっていたなら、あなたはそんな怪我、しなくてすんだのです」



ぎゅっと握り締めた拳に力が入った。
どうして、どうしてすぐに助けてあげられなかったんだろう。
あんな連中、自分の手に掛かればものの数秒で倒せたはずなのに。

彼女に見惚れて、足が止まってしまった。
その結果、彼女は大きな怪我を負った。
本当に情けない話だ。

自嘲的な笑みが零しながら、利吉はと向き合った。
彼女は驚いたような困ったような表情で、利吉をじっと見つめている。



「あなたの怪我は全て私の所為です。本当にすいませんでした」



今度は利吉がに頭を下げた。
しかしそれは『感謝』ではなく、『謝罪』の為だ。

暫し嫌な沈黙が続いたが、ややして『利吉さん』との静かな声がした。
それを合図のようにゆっくり顔を上げた利吉は再びを見つめ、そして固まった。

てっきり、責められると思っていた。
なんて最低な人なんだと、あなたの所為でこうなったと。
瞳に軽蔑の色を写し、酷く冷めた表情を浮かべながら、こちらを見つめていると思っていた。

けれど実際の彼女は、そんな様子微塵もなくて。
ただただ、優しい瞳を利吉に向け、穏やかに微笑んでいた。



「私も、あなたに謝ってもらう理由はありません」
「え……」
「この怪我は……私の驕りです」



言いながら、そっとが自身の左腕を撫でる。



「勝てると思いました、自信がありました。だから、ほんの僅かだけど気を抜いて、後ろに立った男の気配に気付けなかった。その結果が、これです」
「、さん」
「本当なら、私はすでにここにはいない人間です。でも、利吉さんが来てくれたから……助けてくれたから、今こうしていられるんです」
「……、」
「それに剣に見惚れていたなんて、私にとってはこれ以上にない誉め言葉ですよ」



フフフと笑いながら、一歩が利吉に近付く。
そしておもむろに彼の右手をとると、固く握られたその拳を優しく解いた。
爪の跡がついてしまっている掌をゆっくり撫でながら、自身の両手で包み込むようにぎゅっと握る。



「私はあなたを責めません。だから、あなたも自分を責めたりしないで」



困惑からか、忙しなく動いている利吉の瞳。
それを捉えて、は柔らかく微笑んだ。



「助けてくれてありがとう、利吉さん」



瞬間、利吉は全身の血がドクンと大きく脈打つのを感じた。
顔はどんどん熱くなってきて、に握られている右手からは、大量の汗が噴き出していた。
突如自分の身体に起こった異常な現象を悟られたくなくて、慌てて手を振り払いから離れる。
そんな利吉には目をパチクリさせた。



「利吉さん?」



『どうしました?』と比奈子が首を傾げる。
利吉は左手の甲で口元を隠しながら、暫し視線を泳がせた。
数秒後、ゴホンとわざとらしい咳払いをして、丸い瞳でこちらを見つめているをちらり見やる。
視線が合った比奈子は不思議そうな顔をして、しかしすぐにまた笑顔を見せた。


この人は、本当に凄い人だ。
女であるにも関わらず、強くて勇ましくて逞しい、屈託の精神。
そして、清楚でしなやかで、大きな優しさと暖かな包容力。
まさに、『凛』と『柔』を同時に兼ね揃えた女性。

これまでの人生の中で、こんな相手に出会ったことはない。
そして、自分自身をこんな気持ちにさせた人も。



「…………さん」
「あ、はい」



真っ直ぐ見つめてくるの瞳。
トクントクンと、自身の心臓が少しだけ速く音を刻む。
それが少しだけ可笑しくて、心地良い。



「また、会いにいってもいいですか?」
「え?」
「今度いつここに来れるかはわかりませんが、でも必ず来ます。その時に、あなたの元を訪ねてもいいですか?」



会いたいんです、あなたに。
を見つめながら、そう利吉が訊ねる。
突然の申し出に一瞬きょとんとするだったが



「えぇ、勿論!お待ちしてます」



そう満面の笑みで頷いた。
そんな彼女にほっとした様子で小さく微笑んだ利吉は、ペコリと頭を下げると体を半回転させた。



「でわ、また」



そう呟いて、少しだけ足早に歩みを進める。
背中から聞こえる『利吉さーん!お気をつけてー!』というの声。
それに心が温かくなるのを感じながら、利吉は不意に自分の右手を見つめた。

今まで経験したことのないこの感情。
嬉しいような、苦しいような、恥ずかしいような、とても複雑な気持ち。
もしかしたら自分は彼女にまじないでもかけられてしまったのだろうかと、一瞬変な不安が生まれる。

けれど、もしそうだったとしても。



(彼女にだったら、悪くないかもしれない)



フッと笑みを零して、前を向いた。
次またこの学園を訪れるのが楽しみだと思うと、自然と足並みが軽やかになった。



***



「利吉さん、良い人だったな……」



小さくなっていく利吉の後ろ姿を見送りながら、は安心した様子で呟いた。



「無事お礼も言えたし、本当に良かった」



僅かにだけど、自分に向かって確かに微笑んでくれた利吉。
また会いに来てくれると言ってくれたし、どうやら迷惑がられてはいないようだ。



「利吉さんとも、仲良くなれるかな?」



そうだったら良いなと小さく笑って、上機嫌で医務室へ戻ろうと後ろを振り向く。
が。



さぁぁぁぁん!?」
「ひゃぁ!?」



突如ぬっと現れたのは、事務員、小松田 秀作。
彼の登場とその手に持たれたそれを見て、は嫌な予感がした。



「な、何でしょう。小松田さん……」
「あなた今、学園から出ましたね?」
「……え?」



『ほら!』と秀作が指差したのは、学園の門。
そして自分達が今立っているのは、その外側だ。



「ね!?出てるでしょう!?」
「あ、はぁ……で、出てます、ね?」
「はい、出てます!」
「ってことは、その……もしかして……?」
「退門票にサインお願いしまーす!」
「で、でもあの……本当に、ちょっとしか出てないんで……っ」
「サインお願いしまーす!」
「こ、これからすぐまた学園に入るんですけど……っ」
「サインお願いしまーす!」



マニュアル人間の辞書に『融通』の文字は無いらしい。
がっくりと項垂れた後、仕方なく退門票と入門票にサインをするだった。



そんな彼女を少し離れた所から見ている二つの影。



「……あれが、 か……」
「あの人が……まさか……」
「小松田さんがはっきりそう呼んだ。間違いないだろう」



叢に隠れながら小声で話しているのは、鉢屋 三郎と不破 雷蔵。
二人は今学園中で噂にされているを見る為、先程までくの一の中庭の松の木にて、ずっと長屋を見張っていたが、待てど暮らせどそれらしき人物は現れなかった。
そうこうしている内にくの一の生徒達が木の下に集まってきて他愛もないお喋りに花を咲かしだしてしまった為、これ以上の張り込みは困難とやむなく断念したのだった。
しかし、まだ諦めがつかなかった三郎は『別のところにいるかもしれない』と嫌がる雷蔵を強制連行。
あちこち連れまわしている内に、偶然通り掛かった学園の門のすぐ前で、彼女を見つけることが出来たわけである。



「まさかあんなに若いとは。しかもなかなかの美人だ。想像とだいぶ違う」
「…………」
「うーん、見れば見るほど普通の女だ。あんな細い腕で本当に剣がふれるのか?これはますますどれほどのものか気になるな」
「…………」
「しかし思わず隠れてしまったが……直接会って話をするか?でもまだどんな人間かわからないし、やたら接近するのは危険な気もするな……」
「…………」



難しい顔でブツブツと言っている三郎だったが、雷蔵はそれに返事を返すこともせず、ただじっとを見つめていた。
秀作にくどくどと注意されているその姿は、言いつけを守れず叱られている子供のよう。
けれどその顔に浮かぶ苦笑はどこか温かく、雷蔵は目を離せなくなった。



「やはり暫く後をつけて様子を伺うか。なぁ、雷蔵」
「…………」
「……雷蔵?おい、雷蔵」
「えっ!あ、う、うん」



『そうだね』と言いながらも、どこかぼんやりしている雷蔵を不審に思い、三郎が眉を寄せる。
しかしすぐに、雷蔵の視線がに注がれているのに気付いて『あぁ』と納得したような声を出し、続けてニヤリと口角を上げた。



「なるほど。そういうことか」
「え?」
「いやいや、知らなかったぞ雷蔵」
「えっえ?な、何が?」
「お前、ああいうのが好みなんだな」
「はっ!?なっ何言ってるんだよ三郎!!」



三郎の一言に大慌ての雷蔵。
真っ赤に染まったその顔を見れば、先程の言葉が多少なりとも的を得たのは明らかだ。
ニヤニヤしながら『まさか年上好きだったとは……』と付け加える三郎に、雷蔵はより一層取り乱す。



「ち、違うよ!そんなんじゃない!別に僕はあの人のことなんか……っ」
「あんな熱視線を送っておいて、よくそんなことを……」
「っ!そそ、そんなもの送ってないよ!!」
「別に隠さなくても良いじゃないか。俺もあぁいうのは嫌いじゃないぞ?」
「だ、だから本当に違うってば!!三郎の馬鹿ぁ!!」



必死に否定する雷蔵だったが、言えば言うほどをとても意識しているように聞こえてしまう。
珍しい彼のご乱心ぶりに可笑しくなった三郎は、たまらず声を出して笑った。



「何笑ってるんだよ三郎!!」
「はははっ!雷蔵、お前ドツボにはまっているぞ?」
「誰の所為だと思ってるんだ!!」
「勿論 の所為だな」
「あの人の所為じゃない!!」
「ほう、庇うのか。愛だな」
「ちっちがっちがーう!!」
「おいおい、そんな大声出すな」



『気付かれたらどうする』と、三郎が雷蔵を諌めた、その時。



「君達、そこで何してるの?」



不意に頭上から降ってきた第三者の声に、ピタッと固まる三郎と雷蔵。
ゆっくり揃って顔を向けると、首を傾げ不思議そうに見つめている馴染みの事務員と、



「?」



その少し後ろで、こちらの様子を窺っている、の姿があった。



                                                                                                                                                                                                 10...