いつもと変わらない板の廊下。
いつもと変わらない医務室の扉。
いつもと変わらない薬剤の香り。
全てがいつも通りで、少しも違いがなくて。


でも。
ただひとつ、変わっていたのは。


そこにいた、あなたの存在。






Chapter 05






これはどういうことだろう。
六年は組の保健委員長、善法寺 伊作は、呆然と扉の前で立ち尽くしていた。
放課後、委員会活動を始める前に薬棚を整理しておこうと立ち寄った医務室。
しかしそこにいたのは顔馴染みの校医ではなく、見たこともない一人の女性だった。



(誰だ?)



初めて見る相手に警戒しながら、伊作は物音を立てないようにそっと近付き、傍に腰掛けた。
その人は部屋の中心に敷かれた、普段生徒には出さない少しだけ高価な布団に横になって、静かに瞳を閉じている。
耳を立ててその寝息を聞き、どうやら狸寝入りではないことを確認すると、伊作は改めてその人を見た。

自分よりもいくつか年上だろうか。
同学年のくの一にはない、全体的に大人びた雰囲気。
耳と首元には見慣れない金属が付いていて、ん?と眉を顰めた。
その瞬間、微かに彼女が顔を動かし、ハラリと少し長めの前髪が揺れその顔立ちが露わになる。



「…………っ」



思わず息を飲んだ。
細く締まった顎が輪郭を引き立たせ全体的に鋭敏な印象だが、閉じていても二重だとわかる瞳が愛らしさを漂わせる。
伏せられた睫毛は長く、下瞼にぼんやり影を作っていた。
桜色の唇は薄く開かれていて、彼女が呼吸をする度にその奥の舌がちらついた。

世の中で言われる美人の分類ではない。
けれど、とても綺麗だと思う。
ただひとつ残念なのは、白くきめ細かいその肌に、いくつも小さな擦り傷があることぐらいか。

わずかに早くなった己の心音に戸惑いながらも、伊作は彼女から目を離せずにいた。
すると、そんな伊作の視線に気づいたのか、その人は『ん……』と短い声を漏らすと、ゆっくり瞼をあげた。
驚いた伊作は無意識のうちに近づけていた顔を急いで戻し、僅かに体を引いた。
やがて目を開いた彼女はその瞳に伊作の姿を映すと、パチパチと二、三回瞬きを繰り返し、それから慌てて布団から跳ね起きた。



「わっ!ご、ごめんなさい!私、すっかり寝ちゃっ、……っ!」
「だっ大丈夫ですか!?」



上体をあげた瞬間、盛大に顔を顰めた彼女に伊作は反射的に手を伸ばし、その体を支える。
伊作の助けを借りなんとか体制を整えた彼女は、その顔に照れ笑いを浮かべて伊作を見た。



「ありがとう」
「い、いえ……」



間近でその笑顔を受けた伊作は、かぁっと顔を赤く染めた。
支えた手から浴衣越しに伝わる彼女の体温と、仄かに香る甘い匂い。
それに思わず目眩を起こしそうになりながらも、鍛え抜かれた忍耐精神で何とか持ち堪える。



「え、えぇっと、私は善法寺 伊作と申します。失礼ですが、あなたは……」
「あ、 です。さっき、ちょっと怪我をしちゃって、ここで手当てしてもらったんです」
「そうだったんですか」



頷きながら、包帯が巻かれたの左腕に目をやった。
少し大袈裟なほど広範囲に渡って巻かれたそれは、おそらく後輩の乱太郎がやったものだろう。
彼女が寝ている時の処置できっちり巻けなかったのか、時間が経った今はへにゃりと頼りなくよれてしまっている。
小さく苦笑した伊作は『ちょっとすいません』との左隣に回ると、包帯に手をかけた。



「これ、巻き直させてもらいますね」



伊作の言葉にも左腕に目をやり『あぁ』と納得したように笑った。



「はい、お願いします」
「はい」



伊作は丁寧に包帯を巻き取ると、傷口を抑えていた薄い布を取った。
そしてその先に現れた傷が予想以上に深いことに、ぎょっとする。



「酷いですね……どうしてこんな……」
「実は、盗賊とやり合いまして」
「盗賊と!?」



勢いよく顔をあげた伊作に、は『あはは……』と苦笑いを浮かべた。



「私、道場の娘で、昔から父に鍛えられてたんです。だから、剣の腕には少しだけ自信があって……まぁ、最後には負けちゃったんですけどね」
「はぁ……そうなんですか……」



の話を、伊作はどこか呆けた様子で聞いていた。
忍者の自分でも出来るだけ避けたいと思っている盗賊と一戦交えただなんて。
しかも、こんな華奢な女性が。
にわかには信じられない話だが、この傷は確かに刃物で斬り付けられたものだ。
断面からして、刀の勢いは相当なものだったのだろうと予測できる。
まともに食らったら、確実に切り落とされていたに違いない。
それにも関わらず、実際腕の傷はこの程度の深さで済んでいて、勿論しっかりくっついている。
つまりそれは、彼女が俊敏且的確に避けたということだ。



(もしかしてこの人……かなりのやり手なのでは……)



だったら女性だと思って気を抜くことは許されないなと、伊作は再び芽生えた警戒心を内に秘めつつ、薬棚から傷薬を取り出して新しい薄布に塗る。
それを腕の傷口に押し付け、その上から包帯を巻き直した。
は薬の染みる痛みに耐えながらも、素早く処置をする伊作に酷く感心していた。



「包帯を捲くの上手ですね」
「ありがとうございます。これでも、保健委員長なので」
「委員長さんってことは、最上級生?」
「はい。六年です」
「へぇ、なるほど……」



流石は高学年、手際が良いなぁなどと見とれているうちに、包帯の端がきゅっと結ばれる。



「はい。これで大丈夫です」
「うん。どうもありが―――」
さぁぁぁん!!」



伊作にお礼を言おうとした瞬間、それを遮るように廊下から聞こえてきた声。
と伊作が医務室の扉に顔を向けると同時に、泣き顔のしんべヱが飛び込んできた。
しんべヱはその勢いを緩めることなく、に思いきり抱き着いてくる。



「い゛っ!!」
「ふえぇぇー!さぁぁーんっ!!」
「し、しんべヱく……っ(い、いたい……)」



まるで体当たりのような形で抱きつかれ、の体は痺れるような痛みが襲う。
それに心の中で悲鳴をあげながら、自分にしがみ付いて泣いているしんべヱを見下ろした。



「し、しんべヱ君……えっと、お帰りなさい?(でいいのかな?)」
さぁぁん!ふぇぇーん!!」
「あぁっ!そ、そんなに泣かないで!!」



鼻水が布団についちゃう!と慌てるに、横にいた伊作が『あっこれ使って下さい!』と素早く筒状の紙を手渡した。
トイレットペーパーってこの時代にもあったの?といささか疑問に感じながら、はそれを受け取りしんべヱに顔を上げさせた。



「ほらしんべヱ君?お鼻かもう?」
「うぅぅ……っヒック…………チーン!!」
「すっきりした?」
「うん……」



出すもの出して落ち着いたのか、とりあえず泣きやんだしんべヱにほっと胸を撫で下ろす。
しかししんべヱの不安は消えていないようで、眉を八の字に下げながらじっとの顔を見上げていた。
はそんなしんべヱを見、優しい笑みを浮かべる。



「心配かけてごめんね」
「……さん……もう大丈夫なのぉ……?」
「うん。ここでちゃんと治療してみらったから、大丈夫よ」
「よかったぁ」



の言葉を聞いて安心したのか、しんべヱはにぱぁっと破顔した。
満面の笑みを向けられ、も自然と笑顔が浮かび、よしよしとしんべヱの頭を撫でた。



「廊下は走っちゃいけませんって言ったのに……全然聞いてませんね」
「新野先生」
「先程そこで偶然会いましてね。さんが目覚めましたよと言ったら、しんべヱ君てば凄い速さで走って行ってしまって……」
「しんべヱがあんな早く走るなんて飯の時ぐらいっすよ」



呆れるような苦笑を浮かべる新野の隣からひょっこりと顔を覗かせたきり丸は、起き上がっているを見て微かに口元を緩めた。
しかしその隣に座っている伊作を確認すると、あからさまに表情を強張らせる。
どこか怒った様子のきり丸はズカズカと部屋の中に入ると、の真横に腰を降ろしてぐっと彼女に顔を近づけた。



さん。学園長が呼んでます」
「え、私を?」
「そうっす」
「学園長、さんと会って話したいんだって」
「……そう」



若干下がったトーンで呟いたは、自分を見つめているきり丸としんべヱから視線を反らした。
学園長。この忍術学園で一番偉い人物。
その人が、自分に会いたいと言っている。
思い起こせば、彼にこの世界について話を聞くのがの目的だった。
正直、自分も会いたいと思う。
けれど、がそうであるように、彼もに対して聞きたいことは山程あるだろう。



(絶対怪しい奴だって思われてるよね……私……)



まぁ実際問題、怪しさの塊なんですけどね、と自嘲的な笑みを浮かべる。
しかし、ここで会わないわけにもいかない。
よし、と腹を括ったは、きり丸に向って口を開いた。



「わかった。それじゃぁ、学園長先生のところへ連れて行って?」
「はい」
「でもさん、足怪我してるんでしょ?歩けるの?」
「うん。もうそんなに痛くないし、大丈夫」
「でも、これでまた悪くなっちゃったら大変だよ?」
「あ、それなら私が……」
「俺が!ちゃんと支えるから大丈夫!!」



言いかけた伊作に反論するように、きり丸が剣を含んだ声で叫ぶ。
に手を伸ばそうとしていた伊作はその体制のまま固まり、そんな彼をよそに、きり丸はの上に乗っているしんべヱを退かすと彼女の手を引いた。



「さぁ、さん!早く行きましょ!!」
「うっうん……」



は妙に急かしてくるきり丸に戸惑いつつも、出来るだけ負担をかけないようにゆっくり立ち上がる。
一瞬ふらつきそうになったが、素早くきり丸が支えてくれた為、何とか持ち堪えた。
きり丸に手を引かれながら扉の近くまで来た時、傍にいた新野に『さん』と呼び止められる。
顔を向けると、新野は優しい笑顔でを見ていた。



「学園長のところから戻ったら、もう一度ここに来て下さいね」
「え?」
「あなたの怪我はまだ完治していないんですから、無理は禁物ですよ」



『ね?』と微笑む新野にどうやら見透かされたらしいと悟ったは、『はい』と小さく照れ笑いを浮かべた。
それからふと伊作の方に顔を向ける。



「えっと、善法寺君?」
「は、はい!」



いきなり名を呼ばれた伊作はハッと我に返り、を見返す。
は微笑みを浮かべながら、包帯の巻かれた腕を軽く持ち上げる。



「これ、ありがとう」
「…………っ、いえ……」



顔を真っ赤にして俯いた伊作に、きり丸はおもいきり眉間に皺を寄せると、強い力でを引っ張った。



さん!早く!!」
「あ、うん。それじゃぁ新野先生、お世話になりました……っ!!」
「あっ待ってよぉ〜!」
「はいはい。どうぞお気を付けて」



挨拶もまともにさせてもらえぬまま引っ張られていくに同情の苦笑いをしながら、チラリと視線を横に動かした。
そこには膝の上で握り締めた拳をじっと見つめている伊作がいる。
それは、数分前の乱太郎と同じような表情で……。



(どうやら、とんでもないお客さんが来てしまったようですね……)



心の中でそう呟いた新野は人知れず、何とも言えない溜息を吐き出した。



***



の手を引いたきり丸が、スタスタと廊下を歩く。
普段だったら何でもないのだが、怪我人には相当辛いその速度。
は何とか付いて行こうと懸命に足を動かしたが、一歩歩く度足首に小さな痺れが走り、正直辛かった。
もう少しゆっくり歩いてと言いたくても前を行くきり丸は何故か酷く不機嫌で、その顔を見てしまうとどうしても口から言葉が出てこない。



(ど、どうしたんだろ……きり丸君……)



きり丸の様子が何だかおかしいことは先程から感じていた。
けれど、その理由がまったく思い浮かばない。
何か自分は怒らせるようなことをしただろうかと不安に思っていると、隣にいたしんべヱがいなくなっていることに気付いた。
『あれ?』と思って後ろを振り返ると、『待ってぇぇ』と叫びながら必死に追いかけてくるしんべヱがいる。
どうやらきり丸に合わせて速く歩きすぎた所為で、置いてきてしまったらしい。



「ちょっ、ちょっと待ってきり丸く……、っ!」



とにかくきり丸を制そうと声を上げた瞬間、一層激しい痛みが足首を襲った。
たまらず顔を歪めた気付いたきり丸は、ハッとこちらを振り返り、ようやくその足を止める。
きり丸は酷く驚いた顔でを見つめ、ややして表情を歪めた。



「っ…ごめん、なさい……俺……っ」



に無理をさせていたことに気付いたのか。
謝罪の言葉と共に、きり丸が強く掴んでいたの手を放した。
ぎゅっと唇を噛み締めて俯くきり丸は、自分自身に対して苛立っているようにも落ち込んでいるようにも見える。
はそんなきり丸にどう声をかけていいかわからず、『えーっと』と言葉を探した。
そしてふと、思い出したように口を開く。



「あ、そうだ!きり丸君。お腹大丈夫?」
「え?」
「あの時、盗賊に蹴られたでしょ?あの人、手加減してなかったみたいだったから」
「あ……」



の問いかけに顔をあげたきり丸は、暫し丸い目をキョロキョロと彷徨わせる。
それから視線を彼女に戻すと、遠慮がちにコクリと小さく頷いた。



「ちょっと痛かったけど、大丈夫っす」
「そう、良かった」
「俺よりも、さんの方が……」
「私も、ちょっと痛かったけど、大丈夫っすよ?」



きり丸の口調を真似ながら笑うに、きり丸は一瞬虚を突かれたように目を見開いた。
それから僅かに頬を赤らめると、不満げに口先を尖らせる。



「似てないっすよ」
「あらら、やっぱり?」



駄目出しに苦笑するを見て、きり丸も気が抜けたように硬かった表情を和らげる。
どうやら機嫌は直ったらしいとほっとしていると、ドタドタと足音が近づいてきて、息を切らしたしんべヱがこちらへとやって来た。



「やっと追いついたぁ!もー二人共早いよぉー!」
「あーわりぃわりぃ!んじゃぁさん、行きましょっか」
「うん」
「あ、僕も僕もー!!」



再びの手を取ったきり丸を見て、しんべヱが彼女の逆の手を掴んだ。
きり丸は先程までとは違い、今度はゆっくりとした歩調で一歩一歩慎重に歩いていく。
左にきり丸、右にしんべヱ。
両手に感じる其々の体温が心地良くて、はなんだかとても温かい気持ちになった。

庭に面した廊下を暫く歩いていくと、視線の先に校舎とは違った建物が見えてくる。
あの離れが学園長室かなと二人に尋ねようとした、その時。



「あー!!そこのあなたぁ!!」
「ゲッ……」
「うわぁ……」



こちらに向かって人差し指を向けている一人の男性。
その人の存在を確認するや否や、きり丸としんべヱは露骨に嫌そうな声を出した。
面倒な人に会っちゃったなぁと言いたげな二人の表情に、は疑問符を浮かべながら彼を見つめる。
庭の落ち葉を掃除していたらしい彼は竹箒を持ったまま、すたたたーと三人の前へと駆け寄ってきた。



「あなた!入門票にサインしてませんよね!?」
「にゅっ入門票?」



『これです!』と懐から小さな板を取り出した彼は、そこに付けられた紙をずいっとに突き付けた。
目の前に持ってこられたそれには、確かに『入門票』と書いてある。
学園にはいる為にはこれの表記が必要なのかと、ぷくーっと頬を膨らませて怒っている彼を見た。



「困りますよ〜サインなしで学園に入っちゃぁ」
「あ、す、すいません……」
「しょうがないでしょ、小松田さん。学園に入った時、さん気を失ってたんだから」



『そこら辺、大目に見て下さいよ』ときり丸は呆れたような溜息を吐いた。
そんなきり丸に小松田と呼ばれた男は『駄目だよ!』と強い口調で反論する。
何やらクドクドときり丸に対して語り出した彼を唖然と見詰めるに、しんべヱが横から口を開いた。



「小松田 秀作さん。この学園の事務員さんで、すっごい規則にこだわるの」
「そ、そうなんだ……」



マニュアル人間なのねと納得するに、きり丸への説明がひと段落したらしい秀作が『とにかく!!』と再び視線を向けた。



「これを書いてもらわなきゃ、学園には入れられない決まりなんです!!」
「は、はぁ……そうなんですか……」
「そうなんです!さぁさぁ、早くサインお願いします!!」
「わ、わかりました!サインします!しますから!!」



ズズズイ!!という勢いで入門票を突きつけられたは、コクコク頷きながら慌ててそれを受取ろうとした。
が。



「あの……きり丸君、しんべヱ君。サインしたいから、手を放してもらえるかな?」
「…………ほら、しんべヱ。早く放せよ」
「えぇーやだよー!きり丸が放せばいいじゃないかぁ!!」



を挟んでギャアギャァと言い争いをするきり丸としんべヱ。
お互いにの手を強く掴んで、頑なに放そうとしない。



「しんべヱの掴んでる方が右手だろ!さっさと放せ!!」
「いや、あの、きり丸君?左手も放してもらわないと、入門票が受け取れないから……」
「いやだーぁ!僕、さんと手繋いでるんだーぁ!!」
「し、しんべヱ君!また泣いて……っ!!」



またもや泣き出したしんべヱと、またもや不機嫌になってしまったきり丸。
子供特有の感情の激しい浮き沈みにオロオロしながら、は必死に二人を宥める。

そして、そんなの胸中を察す気もないらしいマニュアル事務員が、彼女に追い打ちをかけるように



「入門票にサインお願いしますぅ!!」



カクンと、の首が下がった。
彼女が学園長室の扉を叩くまで、まだまだ時間がかかりそうだ。



                                                                                                                                                                                                 06...