ベットサイドのデジタル時計が、朝の訪れを知らせる。
その音にゆっくり瞳を開ければ、もう何度も見慣れた白い天井が見えて。
薄紅色のカーテンを開けて、太陽の光を部屋いっぱいに取り入れれば、いつもと同じ日常の始まるはずだった。
でも、その日常は突然。
何の理由も前触れもなく、自分の前から綺麗さっぱり消え去った。
Chapter 04
すぐ傍から、漢方の香りが漂ってくる。
徐々に浮上してくる意識に重い瞼を開けると、どこか見覚えのある天井がの視界に映り込んだ。
体を包む掛け布団は少し固くて、背中に当たるの感触もベットのそれとは少し違う。
寝起きのはっきりしない頭でも、ここが自分の部屋ではないことは十分理解できた。
(実家に、帰ってきたのかな……私……)
の実家は田舎の道場で、家事態がかなり古い。
部屋の天井もこのように古い木の板で出来ていて、あちこちに黒ずんだシミがあった。
懐かしいとどこか感慨深くなっていると、次の瞬間、ズキンと左腕に感じた激痛。
それをきっかけとするように、体中に軋むような痛みが広がった。
筋肉痛に近いその感覚に顔を歪ませながら、きっとこれは先程の戦闘が影響しているのだと悟ると、たちまち現実味が帯びてきた。
(ってことは、やっぱり夢じゃない……)
扉を開けた瞬間、この世界に来てしまったことも。
しんべヱと言う名の忍者の卵を助け、その友人の乱太郎、きり丸に出会ったことも。
そして彼らを守る為、盗賊に向かって剣を奮ったことも、すべて実際にあったことなのだ。
(何か凄いことの連続で、ゆっくり考えてる時間もないなぁ)
心の中でそう呟いて、とりあえず体を起こそうと無事な右手を床につく。
襲い掛かる痛みに苦戦しながらもどうにか上体をあげた時、『あっさん!』と声が響いた。
「らんたろう、くん……?」
「さん!大丈夫ですか!?」
扉の近くで水の入った桶を持っている乱太郎は、起き上がっているを見て慌ててこちらに走ってきた。
そしてすぐさま桶を傍に置くと、真剣な表情での顔を見つめる。
「乱太郎君、ここは?」
「忍術学園の医務室です。さん凄い怪我だったから、ここで治療してもらったんです」
乱太郎の言葉に、そう言えばと改めて自分の格好に目をやる。
きっと治療の時に着替えさせられたのだろう。
が身に纏っていたのは今までのワンピースではなく、寝巻用の浴衣だった。
負傷した左腕には白い綺麗な包帯が巻かれていて、足首も動かないようしっかり固定されている。
「大丈夫ですか?怪我、痛みます?」
「うん、ちゃんと手当してもらったからかな?たいして痛くないよ」
『心配してくれてありがとう』と微笑むに、乱太郎はほっと息を吐いた。
けれどそれからすぐに表情を曇らせて、しょんぼりとした様子で俯く。
「?どうしたの?」
「さん……ごめんなさい……」
「え?何が?」
謝罪の意味が分からず、首を傾げる。
乱太郎は正座をした膝の上の両手をギュッと握り絞め、細々と言葉を紡いだ。
「私達、本当はさんを守らなくっちゃいけないのに……あの場から逃げてしまった……」
「それは、私が逃げなさいって言ったからでしょ?」
「でもっ!それでも私は……何も出来なかった自分が、情けないです……」
頭を垂れてそう言う乱太郎を、は暫し無言で見つめた。
それから、ふっと口元を綻ばせると、乱太郎に向かって手を伸ばし、彼の頬に触れた。
ビクッと一瞬肩を震わせた乱太郎は、目を大きく見開きながらを見る。
は乱太郎の頬に残る小さな傷を、指の腹でゆっくりなぞった。
「守ってくれたじゃない、ちゃんと」
「え……」
「あの盗賊が現れた時、私の前で楯になってくれたでしょう?」
「でも……結局、やられてしまって……」
呟く乱太郎に、は首を横に振る。
「結果なんてどうだっていい。あの時、男達に恐れることなく向かって行った乱太郎君達は、本当に格好良かったよ」
『ね?』と首を傾げながら優しい微笑みを浮かべるに、乱太郎は思わず顔を真っ赤にした。
動揺しているのか、口をパクパクさせて声を上手く出せない乱太郎を見て、なんだか金魚みたいと笑いが零れる。
「乱太郎君って可愛いね」
「えぇっ!?そ、そんなこと……っ!!」
一層顔を赤くし狼狽する乱太郎はやっぱり愛らしくて、フフフッと口元が緩む。
男の子に可愛いなんて禁句なんだろうけど、本当のことなんだからしょうがない。
そう、がよくわからない開き直りをしていると、開け放たれた扉から誰かが廊下を歩く音がした。
「おや、目を覚まされましたかな?」
「うわぁっ!?に、新野先生っ!!」
いきなりかけられた声に驚いた乱太郎は体を大きく揺らした後、慌ててから少し離れた。
『新野先生』と呼ばれたその人は片手に湯のみを持ち、人の良い笑みを浮かべながら二人の方へとやってくる。
傍に腰を降ろし乱太郎と同じように正座をした彼は、に向かって頭を下げた。
「初めまして。忍術学園の校医をやっております、新野です」
「あ、初めまして。 です」
「さん、お加減の方はいかがですか?」
「えぇ、お陰様で大分」
「それは良かった。血相変えて飛び込んできた乱太郎君達を見た時は、何事かと思いました」
フフッと笑う新野は懐から小さく折り畳まれた和紙を取り出すと、湯のみと共にへ差し出す。
「痛み止めです、どうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
「幸い足首の方は捻った程度なのでさほど心配ないと思いますが、腕に関しては少々時間がかかりそうですね。かなり深く切られていますから」
「そうですか……」
「とりあえず傷口が化膿しないように、まめに診ることにしましょう。何か違和感を感じたらすぐに言って下さい」
「はい。あの、ご迷惑おかけします」
「いえいえ、お気になさらず。むしろ、この程度ですんで何よりですよ」
優しく微笑む新野に、も安堵の笑みを返す。
そしてふと、先程意識が途切れる最後の瞬間に見たあの男性のことを思い出した。
「そう言えば、あの男の人は……」
「男の人……?あぁ、利吉君のことですか?」
「利吉、さん?その方もここの人なんですか?」
「いえ。利吉君はここで教師をしている山田 伝蔵先生の息子さんなんですよ」
「山田先生は私達のクラスの実技担当だから、利吉さんとも知り合いなんです」
「じゃぁ、私を助けてくれたのは……」
確認するように乱太郎を見ると、彼はコクリと頷いて言葉を紡いだ。
「私達、さんを助ける為に先生を呼んでこようと学園へ走ったんです。そしたら丁度、目の前に利吉さんの姿を見つけて。
急いで事情を説明したら、利吉さん、すぐにさんのところに向かってくれて、あっという間に盗賊を倒してくれたんです」
「ここにあなたを運んでくれたのも利吉君ですよ」
「そうだったんですか」
乱太郎と新野の言葉には頷いて、この場にいない利吉に深く感謝した。
彼が来てくれなかったら、自分はきっと今頃あの世行きだったに違いない。
ちゃんと会ってお礼をしなければ、とは新野に問いかけた。
「その利吉さんは、今どこにいらっしゃるんでしょうか?」
「利吉君なら、きり丸君としんべヱ君を連れて学園長室へ行かれてますよ」
「学園長室?」
不思議そうに首を傾げるに、新野は笑いながら彼女の僅かに乱れた掛け布団を直した。
「とりあえず今はゆっくり休んで下さい。利吉君もまた顔を出すと言ってましたから、じきに会えるでしょう」
「は、はい」
「さぁ、乱太郎君。さんも無事目を覚ましたことですし、君もそろそろ戻りなさい。いつまでもここにいたら迷惑ですよ」
「はい……それじゃぁさん、また」
新野にやんわり退室を促された乱太郎は一瞬に目をやり、それから名残惜しそうに席を立った。
しかし扉に手をかけた乱太郎に向ってが『乱太郎君、本当にありがとう』と礼を言うとすぐに表情を綻ばせ、一度頭を下げて部屋を出ていった。
乱太郎が去ったのを確認すると、新野は『さて、』と言いながらを見た。
「私もこれから少し用事がありますのでしばらく留守にしてしまいますが、お一人でも大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
「そうですか、では」
新野は『なるべく早く戻るようにしますので』と言うと、部屋を後にする。
一人になった室内で、はふうっと息を吐き出した。
なんとか最初のピンチは過ぎたようだけれど、根本的な問題はまだ解決されていない。
「本当にここは、戦国時代なのかな……」
これまでのことをまとめたらそうでしかないのだが、にはいまいち実感が湧いてこなかった。
だって、あまりにも頭で理解出来ないことが多すぎる。
あの瞬間、部屋の扉を開けなかったら今も変わらずあの時代で暮らしていたのだろうか。
それとも遅かれ早かれ、自分はここに来る運命だったのだろうか。
「もう……何が何だかわからないや……」
僅かにだるさを覚えた体が、妙に重く感じる。
色々ありすぎた所為で、心身ともに疲れているようだ。
先程貰った和紙を丁寧に開いて、中の薬を口に含む。
口いっぱいに広がる独特の苦みに顔を顰めながら、『良薬口に苦し』と湯のみの水でなんとか流し込んだ。
(とりあえず、新野先生の言う通り、今はちゃんと休もう……)
一息ついて、再び横になる。
目を閉じたが眠りつくまで、そう時間は掛からなかった。
***
「だーかーらーぁ!!さんは怪しいもんじゃないって、さっきからずっと言ってるじゃないっすか!!」
一体何回言わせれば気が済むんだと、きり丸は眉を吊り上げて目の前の大人達を睨んだ。
隣のしんべヱも珍しく怒っているようで、『そうだそうだ!』と拳を突き上げている。
いつになく頑なな教え子達の姿に、土井 半助はどうしたものかと横の山田 伝蔵に視線を向けた。
「と、言ってますが……どう思います?」
「どう、と言われてもなぁ……」
ふぅむ、と訝しげな表情で顎鬚を擦りながら、伝蔵はきり丸としんべヱを見た。
先程二人にについての話を聞いてみたものの、どうにも腑に落ちない点が多すぎると思った。
「お前達の言いたいことはわかった。しかし、それを全部信じると言うのはなぁ……」
「何でっすか!?山田先生は、俺達が嘘吐いてるとでも言うんすか!?」
「そうは言っとらん。第一、お前らが吐く嘘ぐらい、わしも土井先生もすぐに見抜けるわ」
彼らの言う通り、本当にと言う女性はしんべヱを抱え木から下り、更には五人の盗賊に見事な剣捌きで立ち向かっていったのだろう。
しんべヱの巨漢を持ち上げられる力。大の男五人に怯むことなく挑んでいった度胸。
それが女性なのかと一瞬驚きはするが、世は乱世。
群雄割拠しているこの時代、怪力の女剣士でがいたところで、それほど不思議はない。
「じゃぁ、どぉして信じてくれないんですかぁ?」
「私達が信じられないのは、そのさんの方だ」
半助の言葉に、きり丸としんべヱは『何が?』と不思議そうな顔をする。
腕組みをした伝蔵は、ふぅっと溜息を吐きながら天を仰いだ。
「生まれてこの方、トウキョウと言う地名など聞いたこともない。当然、オーエルと言う職業もな」
「それにこの持ち物……例え異国の物だとしても、ありえないですよ」
『これなんて、開くと空が映るんですよ』と、携帯電話を開いた半助に伝蔵も深く頷き、改めて目の前に並べたの所持品を眺める。
長財布にパスポート。ボールペン付き手帳、化粧ポーチ……そして今、半助が持っている携帯電話。
今まで見たこともないそれらに、自然と伝蔵の表情が渋くなる。
そんな彼の様子に、再びしんべヱときり丸が非難の声をあげた。
「どんなに変わったもの持ってたって、さんは本当に良い人ですっ!!」
「そうっす!!木の上で動けずにいたしんべヱを助けて、おまけに俺達を命がけで守ってくれたさんが悪い奴なわけない!!」
「わかったわかった。お前ら、少し落ち着きなさい」
ぎゃぁぎゃぁと興奮気味の二人を半助が宥める。
伝蔵は視線を斜め前へと動かすと、少し離れたところでやりとりを見ていた利吉に問いかけた。
「利吉、お前はどうだ?」
伝蔵の声に視線をあげた利吉は、『そうですね……』と微かに考える仕草を見せた。
あの時、乱太郎達の話を聞いてすぐに向かった利吉だったが、を見た瞬間、足が止まってしまった。
それもそうだ。
見たこともない格好をした女性が、たった一人で三人の盗賊を相手にしていたのだから。
更に驚いたのは、彼女の剣の腕。
横から手を出す気も失せるほどに、彼女の太刀捌きには少しの危うさも感じられなかった。
凛々しく美しく、流れるようなそれはまさに完璧だった。
今まで会った数多くの剣豪の中でも群を抜くだろうの腕前に、利吉は本来の目的を忘れ、暫し呆然とその姿に見入ってしまった。
その所為で、を助けるのが遅くなってしまったのである。
もう少し自分が早く動いていれば、彼女があんな怪我を負うことがなかった。
そう思い、利吉は内心自分の不甲斐なさに腹を立てつつも、父の問いに答える為口を開いた。
「彼女について詳しいことはわかりませんが、少なくとも彼らの言う通り、悪いことを企んでいるとは思いません」
「それは何故だ」
「ないんですよ、『気』が」
『気?』と眉を顰める半助に利吉はコクリと頷いた後、再び伝蔵の顔に目を向ける。
「私は仕事柄、日々いろんな種類の人間と接していて、その中には良い人間もいれば、当然他人を騙す悪い人間もいます。
そして悪い人間は、大なり小なり、必ずそういう『気』を出しています。それは意識して消せるものではありません。
私は今までの経験でそれを察知することが出来るようになったのですが、彼女には、それがまったく感じられなかった」
「お前のそれは、確かなのか?」
「えぇ、自信を持っています」
澱みのない利吉の声と瞳。
を擁護してくれた利吉に、きり丸としんべヱは揃って瞳を輝かせた。
暫し利吉を見つめていた伝蔵は、ややして『そうか』とだけ呟き、瞳を閉じた。
隣の半助は口元に手を当てて、視線を落としじっと一点を見つめている。
各々考え込んでいる様子の二人を、きり丸、しんべヱ、利吉は真剣な面持ちで見つめた。
すると。
「きり丸、しんべヱ」
「「はっはい!」」
突如、輪の中心に座りながら、ずっと彼らの話を黙って聞いていた、我らが学園長、大川 平次渦正が口を開いた。
いきなり名を呼ばれた二人は、吃驚しつつも返事を返す。
学園長はその表情を崩さぬまま、淡々とした口調で続けた。
「そのさんとやらを、ここに呼んで来なさい」
「が、学園長!」
「ほ、本気ですか?」
予想外のその一言に、伝蔵と半助が思わず驚きの声を上げる。
そんな二人に、学園長は諭すような視線を送った。
「伝蔵も半助も、彼女がどんな人間か気になるじゃろう」
「ま、まぁ……」
「それは、そうですが……」
そうズバリ言い当てられてしまっては、もう二の句は紡げない。
図星を突かれた彼らは、バツが悪そうに互いに顔を合わせた。
「ここで我々が頭を合わせて悩んでいたって埒があかん。とにかく、会ってみないことにははじまらんじゃろう」
おもむろに腰を上げた学園長に、全員の視線が集中する。
学園長はそんな彼らを見下ろしながら、ニヤリと笑った。
「ちゃんと向き合って話をしてみて、それからどうするか決めようではないか」
学園長の顔に浮かぶ笑みは、何かを企んでいるような笑みで。
何やら、良からぬことが起きそうだと、その場にいた誰もが感じた。
05...