当り前の日常は単調なことの繰り返しで、正直なところ少しばかり退屈していた。
それなりの仕事に、それなりの生活。
恋人もいるにはいる。
しかし付き合いが長い所為か、最近はなんだかマンネリ気味で以前のようなときめきはない。
慣れてしまったのだと言ってしまえばそれまでだけど、一緒にいるのは好きだからなのか、それとも今更別れるのも面倒だからなのか、わからなくなってきていた。

自分の人生は、本当にこれでいいのだろうか。
本当はもっと違う生き方があるんじゃないだろうか。
ふとした瞬間、そんなことを考えるようになっていた。
多分、現在の自分に飽きていたのだ。

ほんの僅かでいい。刺激が欲しかった。
ちょっとだけ。本当にちょっとだけ、違う日常を味わってみたかった。



けれど。


なにも、こんな劇的な変化を求めていたわけではないんだ。






Chapter 01






ピピピっと、携帯電話のアラームが部屋中に鳴り響く。
鏡の前で身だしなみを整えていたは、腕時計の針が午前八時を指しているのを確認すると、広げていた化粧道具をポーチの中に納めて立ち上がった。
少し駆け足でリビングに戻り、片手に携帯、肩にかけた鞄の中に化粧ポーチを詰め、他に忘れ物がないかチェックをする。



「えーっと、財布も持ったし、パスポートもあるし……うん、大丈夫!」



満足気に頷き傍のキャリーバックに手をかけるその顔は、とてもイキイキしている。
それもそのはず。先日バラエティー番組のプレゼント応募で見事特賞を当てた親友に誘われ、は今日から五日間、サイパンへと旅行に行くのだ。
当初親友は恋人と行く予定だったらしいが、先日なにやら大喧嘩をしてしまったらしく、今も尚揉めているらしい。
そんな状況で一緒に旅行なんて当然行けるわけもなく、この度、に白羽の矢が立ったわけである。
話を持ちかけられた時は、予想外のお誘いに脳が正常に働かず、上手に反応が取れなかった。
何度も『え、本当に?ドッキリじゃなくて?』と尋ね、終いには『しつこい!』と怒られてしまったほどに、にとっては信じられないことだったのだ。

青い海に、白い雲。
誰もが憧れるリゾート地で、高級ホテルに豪華な食事付きの贅沢三昧が五日間も味わえるなんて。
もしかして自分はこれで人生のすべての運を使ってしまったんじゃないだろかという不安に駆られつつも、断る理由なんて一切ないは、喜んでこの誘いに乗ることにした。
親友の彼氏には申し訳ないが、生きているうちで多分もう二度とないだろうこの機会、存分に満喫させていただくつもりだ。

玄関に向かう途中、携帯電話を開く。
現在交際中の恋人にも昨夜メールで伝えてはおいたが、未だ返事はない。



(仕事の忙しい人だからなぁ。まぁちゃんと連絡はしてるんだし、突然訪ねてきたりはしないでしょ)



なんてことを考え、さして気にしていない自分に苦笑しながら、ピンヒールを履いてもう一度部屋の中を振り返る。
ガスも電気も全部消した。窓の戸じまりだって完璧だ。



「よし!それじゃぁ、いってきまーす!」



誰に聞かせるわけでもなくそう言って、ドアノブに手をかけて外に出る。
玄関をしっかり施錠して、親友との待ち合わせ場所に向かう為、意気揚々と足を一歩踏み出した。


しかし、その次の瞬間。
振り向いたの視界に飛び込んできたのは、普段の見慣れた景色ではなかった。



「…………え…………?」



パチクリと、瞬きを数回繰り返す。
まだ見ぬ南の島への期待で緩み切っていた顔の筋肉が、その状態のまま固まった。
凍りついた笑顔のの目の前には、鬱蒼と生い茂る雑草と木々。
人の手が一切入っていないらしきそれらは、己の存在を主張するように大きく大きく育っている。
本来はコンクリートであるはずの地面はその名の通り地の面で、周りには大小様々な石がごろごろと転がっていた。

もしかして自分はまだ、夢の中にいるのだろうか。
でもそれにしては、踏みしめたヒールの踵がグニャリと土の中へ微かに沈む感触が、妙にリアルだ。



「……ここ、どこ……?」



無意識のうちにゴクリと息を飲んだは、視線だけをせわしなく動かした。
遠くの方からは獣の鳴き声のようなものも聞こえ、ブルリと身震いがする。
と、その時、いきなり左の茂みがワサワサと激しく揺れた。
ひぃっ!と驚いて反射的に身構えるの前に飛び出してきたのは、一匹のウサギ。



「え、う、ウサギ?」



バクバクと激しい心臓を抑え、呆然と立ちすくんでいるを尻目に、ウサギは軽快なジャンプで反対の茂みへと消えていく。
どうしてウサギがこんなところに。
そんな疑問を抱きながらも、ハッと我に返ったは勢いよく後ろを振り返った。
そして、瞳に映った光景に、今度は愕然とする。



「な……なんで……?」



ないのである。
つい先程まであったはずの、部屋の扉も、自分の家も。
まるでそこには最初から何もなかったかように、綺麗さっぱり消えてしまっているのである。
大慌てで辺りを見渡してみても、前後左右、すべて緑、緑、緑。
どんな考え方をしてみても、は森の中にいた。



「どっどっ……どういうこと……?」



何がどうなって、今自分はこんなところにいるんだろう。
いつもと変わらない朝だったはずなのに。普段通りに家を出たはずなのに。
しいて言うならば、初めての海外旅行に酷く浮かれていたことだろうか。
それ以外、どうしても思い浮かばない。



「……とにかく、ここからは出た方がいい、よね?」



高く伸びた木によって、太陽の光が十分に届かないこの場所。
いつまでも留まっているのは気味が悪いし、何より怖い。
つい、と視線を上げれば、前方に一本の細い道が見えた。

よし、とりあえずあそこを歩いてみよう。
深呼吸をひとつして決心を固めたは、不安を振り払うように力強く足を踏み出した。



***



歩き始めて、およそ二十分後。
漸く草木が開けた場所へとたどり着いたは、無事、森の中から抜け出すことが出来た。
久しぶりの青空と舗装された道に、ほっと安堵のため息を零す。
しかしそれも一瞬のことで、やはり見慣れないその風景に、次は落胆のため息が出た。
遥か彼方まで広がる田園。
その間にポツリポツリ見えるからぶき屋根の民家。
標識もなければ、街灯もない。当然、コンビニなんてものも。
の実家も相当な田舎だが、さすがにこれ程ではなかった。



「電波もない、か……」



液晶画面に浮かび上がる『圏外』に虚しさを覚えながら、持っていた携帯を鞄にしまい込む。
森の中を歩いている時もずっと考えていたが、ここはやっぱり、自分が今までいたところとは違うらしい。
でも、そうだとしたら、一体どこなのだろう。
うーんと頭を捻っていると、どこからともなく声が聞こえてきた。



「うわーん!!誰か助けてぇーっっ!!」



小さな子供の、泣きじゃくるような叫び声。
男の子だろうか。響きの大きさからして、そう遠くはないことがわかる。



「うわぁぁん!!うわぁぁん!!」



先程よりも鮮明に聞こえたそれに、慌てて姿の見えない相手を探す。
すると、前方に大きな桜の木を見つけた。
その上の方で、何かがゴゾゴゾと蠢いている。



「あれ、かな?」



すぐさま駆け足で傍へと近づく。
根元の辺りから見上げてみると、幹にしがみついて泣いている一人の少年がいた。



「おーい、僕ー?どうしたのー?」



声をかけると少年はピタリと泣くのをやめて、キョロキョロと顔を動かした。
そして幹の下にの姿を確認すると、『うぅぅ……』と再び表情を歪める。
は口元に笑みを浮かべると、少年を不安にさせないように優しい口調で語りかけた。



「大丈夫だよー?私、僕に意地悪なことしないから、安心していいよー?」
「っひっく……ほ、ほんとう?」
「うん、本当。だから、どうしたのか話してくれない?」



『ね?』と微笑むに、少年はしゃくり声を上げつつも『あのね、』とゆっくり言葉を紡ぎだした。



「僕……友達と学園長のお使いに出かけたんだけど、その帰り道で野犬に襲われちゃって……」
「うんうん。それで?」
「それで僕、必死になって逃げたんだけど、追いかけられちゃって……慌ててこの木に登ったの……」
「そうだったの。それは怖かったね」
「うん……」
「でももう野犬はいないみたいだから、降りてきても大丈夫だよ?」
「うん。そうなんだけど……」



言葉の途中でフニャリと表情を歪める少年に、は一瞬首を傾げ、それからあぁと納得したように頷く。



「登ったはいいけど、降りられないのね?」
「うん……」



コクリと頷いた少年に苦笑いをしたは『ちょっと待ってて』と言うと、持っていた木の枝を置きヒールを脱いだ。
近くにある太めの枝に手を伸ばし、よいしょっと掛け声と共に足をかける。
ワンピースの下、レギンス穿いてて良かったなんて、どうでもいいことを考えながら、上へと登っていく。
そんなに少年は、木の高さに臆することなくスルスルと自分の傍へやってくる彼女に驚いているのか、ポカンと口を開けていた。
少年のいる枝までたどり着いたは、彼に向って『はい』と手を差し出した。
その手を取った少年を引き寄せて、腕の中にしっかり抱き締める。



「ちゃんと捕まっててね」
「うん」



キュッと小さな腕が首に回されたのを確認すると、登りよりも慎重に、ゆっくりゆっくり下へと降りていく。
ほどなくして地面への着地に成功したは、少年をそっと降ろしてあげた。



「はい。もう大丈夫だよ」
「うん!お姉さん、ありがとう!!」



にぱぁと満面の笑みでお礼を言う少年に、可愛いなぁとの頬も緩む。
しかし、次の瞬間芽生えた違和感に、んん?と微かに眉を顰めた。



(この子、何でこんな恰好してるんだろう?)



先程までは彼を助けることに集中していた為わからなかったが、今こうして改めて見てみると、少年の着ている物が一風変わっていることに気付く。
否、服だけでなく、少年の姿そのものが、何やらおかしいのだ。
がよく知る男の子達の格好とは、大きくかけ離れているその姿。
テレビや漫画の中でしか見たことのない。
普通に生活しているだけでは、実物を目にすることはほぼありえない。
そんな恰好の少年が、今目の前にいる。
そう、それはまるで、



「僕、福富 しんべヱっていうの。お姉さんは?」
「えっあ、あぁ、 よ」



少年の声に我に返ったは慌てて笑顔を作り、質問に答える。
しんべヱと名乗った彼は『さん!』と嬉しそうに彼女の名前を口にした後、円らな瞳をパチパチさせながら、言った。



さんも、忍者なの?」



そう、そうだ。
目の前の少年は、確かに『忍者』だった。



                                                                                                                                                                                                 02...